昭和41年02月21日  朝の御理解



 信心してお陰をいただくということ。難かしいことをいうことはいらん、見易い信心したらいいと仰るんですけど。どういうような私どもが在り方に為らせていただいたらおかげを受けるか、受けられるかというと、とにかく神様が喜んで下さる様な思い方になる事。神様が喜んでくれるに違いないというような在り方になる事。
 この神様は見通しである。聞き通しで有るのですから、それは私共の心の中に思うておること、感じておる事でも、わかってくださる神様なのである。ですから、こげんな思い方では、おかげは受けまいということを、改めさしてもらう。思い方のなかに、神様が喜んでくださるような、思い方神様喜んでくださるだろうと思う生き方、あり方にならせてもらうということ。
 以外に無いのです見易いでしょうが。それだけの事、ただ云うならばですどういうような思い方にならせて頂いたら、神様が喜んで下さるか、どう言う様な生き方にならせて頂いたら神様が喜んで下さるか、という事を教えによって頂く。はは成程自分が幸せになれない筈だこう言う様な思い方だもんね。こう言う様な生き方だもんね、これではおかげが受けられん筈だという事を解るというならそう言う様な事が解るのだ。
 ほかにないです。信心とは「どうぞ、どうぞお願い致しますと。成る程お願い致しますというておかげを頂くのですよ。けれども、それはその神様の、こういう働きこういう力をもっているという事の一つの印のために神様の権威にかけてそのおかげを見せて下さるのですよ。そこで皆さんここで思わなければならない事は、自分ぐらいなもの、こういうような思い方、こう言う様なあり方の自分にですら。
 こういうおかげを下さる、神様という体験を頂かしてもろうて、それから先は、教えを頂かせてもろうてね、神様の喜んで下さるような思い方、神様喜んで下さるに違いないという、その生き方その行き方にならせて頂く以外にないです。ですから信心は難しいものではない、見易いものじゃ。それをわざわざ難しいものに氏子がする、とこう仰るがね、それだけなんですよ
 。私は思いますけれどもね、あの神様が喜んでくださるような思い方神様が喜んでくださるような生き方に為らせて頂きますとね、第一にね私を中心にするところの人がちゃんとおかげをいただきますよ、楽なんですよ、。皆さんがそういう思い方になられますと、第一助かるのはあなたの周囲の主人であり家内であり子供達なんです。神様が喜んでいただくような思い方にならせていただく、その思い方が形に現われる神様が喜んで下さるような生き方、それをお道の信心では「実意丁寧神信心」と申します。
 実意を込めて丁寧にそういういわば行じ方行い方。そこには、お百姓であるならば、見事なお野菜が作物が豊かに実るでしょう。商売人であったら必ず商売繁盛のおかげになってくるでしょう。人間関係のいわゆる葛藤です、縺れとというものは必ずスムーズに丁度乱れた髪に櫛を入れるようにきれいにとき流されるでしょう。病気で経済の問題で難儀をしておる人達はそこから病気が癒えてくる所の働きが、金に不自由せんですむところの働きが、そこからその源はそこからおかげを受けてくるのですから。
 難儀を感じる時には、だから、自分の思い方の間違いであることをです、人間というものは「自分はひとつも悪い事はしてない、自分はまともな生き方をしている」というような、信心のない時には特にそういう思い方をしております、これはもう思い上がりです。教えを頂けば頂くほどです自分の思い方のお粗末なことに気付きます。生き方、生活のそのありかたということにも実意丁寧を欠いていることに気が付きます。それが教えをいただいていると解るのです。
 だから解っても行じない、唯信心とは拝むこと、願うこと一心不乱に一生懸命拝ましていただく事のような思い方そういうものを一つ私共の信心からね、その根底からそういうものを思い方を変えなければなりません。ですからそれは一つの思い方の上においても生き方の上においてもです、それは信心の解かったといか信心の程度に応じてから、ピンからキリまでございましょう。
 けれども、そこは幼稚園なら幼稚園なり。大学生なら大学生なりにです、これが本当だ、こういう思い方にならせていただくのが本当だ、こういう有り方にならして頂く事が、実意丁寧を行じていくことだと、いうことが解ったことをです、行じる気になってごらんなさい。そのことを神様が見通しであり聞き通しであり、その私達が思っていることまで、ご覧になって聞いておられることが、分かるような印を必ず見せて下さいますよ、それをおかげと申します。
 参りよるけん拝みよるけんおかげを頂くというのはです、それは唯神の権威にかけておかげを下さるだけ。でないと氏子が神を信用しない、信じない。いうならば氏子の幸せを願われるあまりに神様は氏子に信じてもらいたい訳なんですね神様は。と言うて「私を信じろ、私を信じろ」と言うても、人間が信じないから、そこにおかげという印をもって神の働きを見せてくださるだけのこと。
 だからそこを私共が感じさして頂く、こういうことを神様のおかげと言うのであろう、お願いをすればこういうことにまで神様がお働きくださるんだ、ということが分からしていただいたらです、それと平行してお願いするおすがりすると、私共人間の力というものをです分からして頂けば頂くほどだんだんわかれば皆さん「障子一重がままならぬ人の身である」ということですよね。私共障子一重の向こうが分からないでしょうが、1分先の事がわからんでしょうが。
 先日一昨日でしたか、永瀬さんの奥さん、晩の御祈念に参ってみえますが、何かあちらの知ったお方が、自分の運転している自動車にしかつて、もう難しかろうちいうごと、その重体。自分の運転している自動車にひかれんでん、そんなことはなかじゃろうと、それがあなたその居眠り運転かなんかで、電柱にぶつけなさった、ぶつけた途端に自動車の扉が開いた、扉の開いた途端に自分の体が落ちた、エンジンがかかっていたからぶつけて後戻りするとで頭をひかっしゃった。
 なるほど、自分の運転する車で自分がひかれた。そういうことがある。人がひくならまだ話しは分かるけれども、自分の運転する車に自分がひかれる、わからないでしょうが。これも4、5日前でした。唐島の北川さんていうて、ここにお参りされる、敬親会お年寄りのおばあさんがおられますが十五年間参り続けておられるかたなんです、その方がお参りしてみえらましてからここでお届されるんです。
 「私のほうの嫁のいとこに当たる人がおります。あの結婚式なんですね、結婚式でもういよいよ明日が結婚式というのでその家ではお茶の披露があってですね、その披露お茶の披露というんですかねえ、あのお、そうでしょうあの行く前の晩にするお客なんですよ、私はあんまり知らんけれどその御客が済んでしもうてから後かたずのあよる時にです、その肝心の花嫁さんがです明日行かにゃならんというその花嫁さんが首が横向いてからまっすぐ向かなくなった。
 それだけではなくて、口はパカッんと開いて舌が出たぎりでアーというたぎりものが云われんようになった。本当に何とかですねそこにまあ、一日か二日間例えばんならもう結婚された新婚旅行でも行かれた、帰って見えてからそういうことになったならまあだ話はなんだけれども、もういよいよ明日は晴れの結婚式だというのにですね、首が横むいて舌が出て引っ込まんアーというてベロが出たぎり。
 それこそ布かなんかひっ被って顔が見せたくなかろうごたる姿、そういいながら笑いよるなさるもん一生懸命に、それがああた「ベロが顔に出たぎりで引っ込みまっせんげな」と笑いながら。その笑いというが聞きながら、本当に悲しい事だと思うです。自分がどげんか出来るならば結婚式がすんでからベロをだそうちいうごたるふうにしてもよかつを、そういう訳にはいかんでしょうが。自分の運転する車に轢かれるということがあるんです。そんなことはあり得ないと思よることがあるのでしょう。
 お互いが本当に分からしていただかないといけないことは、神様のおかげを頂かなければ実をいうたら立ち行かないんだ、人間自分に力があるごと思いよるけれども、自分に実は力はないんだ。いわゆる、障子一重がままならぬ人の身ぞ」ということを先ず分からないといけない。そこを神様のおかげを頂くところに、あらゆる例えば昨夜のお参りの中にお届の中に久富繁雄さんのお届けの中に先生今日はカンランを植えさせていただきました。カンランを植えさせていただいて、その帰らせていただきましたら、お湿りが始まっておかげをいただきましたとこう言う訳。
 これはやっぱりその弟嫁さんであるクニカさんも一緒に参っておられましたそこでお届されますのに、ネギをだされるのにひいて帰って来られたんです、帰ってくると同時にお湿りがあり出しましたと、おかげで濡れんですんだとこういう。例えばそういうような事柄の中にでもです、もうこの神様はこちらの心がです神様に喜んでいただけるような思い方、又在り方にならしていただく時にいわゆる天地そのものがその1人の氏子のために自由になってくださるということです。
 そう言う意味でなら皆さん、日々体験をお持ちだろうと思います、たったそれだけの事ですが実はこれは大変なことなんですよ。天地が私1人のために自由になってくださるというのですから。そこに信心の有る者とない者との違いを感じます。ためには先ず、自分で降る照る一つのことが自分ではどうにも出来ないのだという事、そこを私共はです「障子一重がままならない人の身だ」ということの自覚に立たせていただいて。
 そして神様のおかげを頂かなければ立ち行かないという事が分かったら、その神様の心に言わば添わしていただく神の心を心としてそれに添わしていただこうという意欲的な生活態度、神様の心にかなうような思い方神様が喜んで下さるに違いないという生き方。そこん処に焦点を置いて行きさえすればです。例えば幼稚園の者が大学生の真似をしなければおかげが受けられんと云うのでなく幼稚園は幼稚園なりに、はあーほんにそんなもんだろうと、ほんにいままではお水一つ使わしていただくにも
 当たり前の事として、使いよった。天地の親神様の、おかげを頂かなければ、一滴の水でも誰が作ったか、天地の親神様のおかげで、頂くのであるからと思ったら、今までそれこそお礼も申し上げてなかった。そのお水一滴の中にもです、天地の親神様の思いの、込められていることが分かったら、押し頂かければ、おれんのであります。一粒のお米に対してもそうである。
 仇や疎かに出来んと、今までは、お粗末御無礼、疎かなことばっかりしておった。そういう事に対しても実意を込めさしてもらうようになり、それでも出来ん処は、お詫びをしていくような、在り方にならしていただく。自分の乗ってきた自動車にも、履いてきた履物にでも、お礼を云うということは、今まで考えもしなかった。おかげで裸足でここまで来なくて済んだ。
 おかげで歩かんで済んだと、例えば自分の周囲一切、お礼を申し上げる事が、本当ということを、今まで知らなかった。そこにお粗末が出来ておった、御無礼が出来ておった。こういう思い方が、前々の巡り合わせで難を受けてきた。今日からは、今日からはそこんところを、分からして頂いて、めぐりを積むところの生活でなくて、神恩報謝の生活にならしていただいて。いま申しますように見通しであり聞き通しである。
 いや私共の心に思うたことですら分かって下さるところの神様にです。神様が喜んでいただけるような思い方に在り方にならしていただこうと意欲する生活を実意丁寧神信心の生活と私は思うのです。信心とはそれなんです。どうぞ今日も商売が繁盛しますように、実を云うと障子一重がままならぬ人の身であるが故に縋らなければおられんのです。願わなければおられんのです。
 「ただ今から集金にまいります、どうぞよろしゅうと先方のことも祈らなくてはおられません、願わなければおられません。だから願うこともいいのです。だから願ごうたら神様の願いであるところの願いも聞かせて頂こうという気にならなければなりません。神様は私に何を願っておられるか、どうぞお酒をお供えしてくれ、どうぞお金をお供えしてくれと全然神様思いござる神様じゃないです。この神様は本当に神様の心を心としての思い方、神様の心を心としての在り方生き方それだけを願われるのです。
 1人が信心になる、そういう在り方にならして頂く時に、私の周囲の人が幸せに致します、もう本当に幸せ致しますです。例えば私が本気でそういう有り方にならせて頂くところに、私に接する人がみんなおかげを受けるでしょうが、モヤモヤしとったつがここへ来てから、親先生とお話しをしよったら、これがスッキリしたと言って帰るでしょうが。皆さんの家庭でもそうです。家内が主人が子供が、そのそういう思い方にならせて頂いておる母親、父親のそれに触れただけでです、周囲がいわば明るくなるというんですか、周囲が助かるんです。
 1人がイライラ、モヤモヤしとってごらんなさい、1人が根性の悪いこと考えていてごらんなさい、云やあせんでもその根性の悪い心がこう通っていくのです不思議に、ぐじぐじ通っていくのです、イライラしてる人がひとり居ってごらんなさい、毒素の中に実意丁寧を欠いだ人が家に一人居ってごらんなさい。その人のために「この人ばっかりは、この奴ばっかりは」と思ってから助からないです周囲の者が。
 皆さん一人が家の中で神様に喜ん頂けれる思い方にならせて頂こうぞ。今日こそは神様に喜んでいただける生き方にならせて頂こうぞ」と思うただけで家の中が明るうなるです。あなたの触れる人が全部が助かるです、これは不思議です。それを神様が喜んで下さる ですから神様が私共が喜ばなければおられない願ごうてもいなかった、思ってもいなかった事の上にまで神様が万事万端の上に、それこそ天地が自由になって下さるほどに私一人の為にそういう働きを見せてくださる。
 「信心はみ易いのものじゃが氏子から難しくする」こういう理屈こういう道理が分からなければという事ではない。分かっただけを自分のものにしていけばいいのだ。誰の真似をしなければ、あの人の真似は出来んあげんな信心は出来んと云うて、いわば巧者な人の信心の真似をすることも何にもいらん。もう今ただ今から出来る事,その人なりに、そこんところに焦点っを置かずにです、一生懸命に拝むことばっかり参ることばっかり,参ったっちゃです。いくらお供えしたっちゃお陰にならんです。
 そういう在り方にならして頂く時、ありがたい、もったないがです、お陰を生み出してゆく訳なんですいよいよ。どうぞ皆さんがここは一つ信じていただきたいと思う今申しますように。この神様は見通しだ、聞き通しだ。いや私共の心の中にチラット思っただけでも神様はそれを見逃すことはない、聞きのがすことはない。そこで私達一日をそういう生き方に一生懸命努めても努めてもです朝から晩まで夜の御祈念にでもさせてもらう時にです、ジーっと一日の事を反省させていただくとあれもお粗末であった、これもご無礼であったと云う事になるのです。
 そこでそこんところをいわばお許しをいただいてお詫びさしてもろうて許したぞというて下さる気持ちがするところまでお詫びをしなければいかん、心の中にそういう神様が許してくださった感じのするところまでお詫びをしなければいかん。否自分は気がつかなかった、どういうお粗末御無礼があるか分からん。人間生身を持ってることですから私共気付かん中にどれほどのお粗末御無礼が出来ておるか分からん。
 そこん処を見直し聞き直ししていただかなければならんという事になるでしょうが。そこに願いというものがあります。どうぞ今晩も安らかな眠りに着かせて下さい。寝てる間も火難水難盗難あらゆる難儀の中からどうぞ万事お繰り合わせをいただいてその難の中からお守りを頂きますようにという祈り願いを捧げさしてもろうて、明くる朝の清々しい目覚ましのおかげを願うてから寝につかせて頂く。
 願うわにゃおられん、すがらにゃおられん。けれども、そのあり方が、神様に喜んで頂ける思い方。もう本当に一人が、実意丁寧になっつてごらん、その周囲が本当にうるおいますよ、豊かになりますよ、助かりますよ。一人が良からん事を思っておる、モヤモヤしよるイライラしよる、腹を立てとる人が一人でも、家に居ってごらん、それだけで暗ぁくなるですから。例えイライラする人が居っても腹立ててる人が居っても、よろしくない事を思っているひとが居っても、一人がです。
 わが身わが心が拝みとうなる思い方になってごらん。それがそれを溶かしていきます。信心はこれ以外にないです、お陰を頂くコツはこれです。参ったけんじゃない、お供えしたからお陰をくれるのじゃない。そこで神様の心を心として、信心とは神様の心を分からして頂く稽古なんです。そしてその心に添い立て奉らせて頂こうとその心、その神の心を心としての日常生活にならせて頂こうとする処に真実世の中の幸せ。
 私達の幸せが約束されるのです。どうぞこの神様は見通し聞き通しで居わりになると云うことを先ず信じさせてもろうて ですから、こんなつまらん事を思いよる、それを払わしていただく努力をさしていただかなければならん。「神様喜んで下さるような」人が見ていようが聞きよるがそんなことは、とにかく、じゃないです。神様は見通しなんですから 神様は見通し聞き通しの中に生活をさしていただく生活、それが私共は信心生活と確信しとります。
   どうぞ、おかげ頂きました。